合気道とデリダ

いかに競争と向き合うべきか?

私が長年向き合ってきたテーマです。

もちろん、競争の目的は「勝つ」ことに他なりません。

では、「勝つ」とは一体どういうことなのでしょう?

もし、それが「生き残る」ということなら、直接対峙する相手との競争それ自体に「勝て」なくても、「勝つ」方法はあるのだと思います。

たとえば、自然界などを見渡せば、その手がかりをたくさん見つけることが出来でしょう。

ミミズもオケラもアメンボも、カブト虫だって、彼らなりの“競争によらない競争戦略”を巧みに展開しています。

今回は、「合気道」と「哲学」の世界から、そんな戦略展開へのヒントを求めてみたいと思います。

哲学については、ジャック・デリダ(Jacques Derrida, 1930年7月15日 – 2004年10月9日)という哲学者を取り上げます。

結論から言うと、合気道とデリダ、このまったく関連性がないと思われる両者を結びつけるキーワードは『死角』です。

合気道は、開祖・植芝盛平(1883~1969)が日本伝統武術の奥義を究め、さらに厳しい精神的修行を経て創始した現代武道です。

武道ではありますが、格闘技ではない点に注意が必要です。合気道は他人と優劣を競うことをしないため試合や競技で競い合うことが一切ないのです。

相手と強弱を競うことのない合気道とは一体何なのか?その歴史は平安時代にも遡ると言われ、一筋縄ではいかない奥深さがあります。

ただ一つ明確に言えるのは、合気道には「攻撃」という概念がないということです。

では、防御についてはどうか?たとえば、合気道を護身術の一つと勘違いしている人もいるかと思いますが、実は、合気道には『護身』の概念すらないのです。

攻撃もしかけず、護身でもない。一体ナニモノ?

『護身』という概念は、相手の「攻撃」があってはじめて成り立ちます。「攻撃」というものが『護身』という概念を生み出しているということです。

ところが、合気道では、相手の「攻撃」というものを「攻撃」にしないのです。相手は攻撃するつもりで襲いかかってきても、その「攻撃」それ自体を骨抜きにしてしまうものなのです。

つまり、最初から「攻撃」などなかったことにしてしまう。より正確には、「攻撃」という概念を事前に取り払ってしまうものなのです。なので、(攻撃に対抗する)『護身』という概念も存在しないことになります。

私は合気道を習ったことはありません。ご多分に漏れず、単なる護身術だと勘違いしていたからです。ですが、調べれば調べるほど、この不思議な武道に惹かれるようになりました。

攻撃も防御もない。攻撃させないのだから防御しようがない。

それで勝ったことにはならないが、同時に負けたことにもならず、引き分けでもない。そもそも競争(勝ち負け)の概念がない。

合気道を読み解く重要なキーワードに『和合』と『入身』(いりみ)があります。

『和合』とは、相手と一つになるということです。一つになってしまうのだから争いようがありません。

『入身』とは、相手と和合するために相手の「死角」に身を入れたり、相手の中心に身を入れることです。

たとえ相手が攻撃をしかけてきても、『入身』によって「死角」に入り、相手と心身ともに『和合』してしまうのであれば、はなから勝負にはなりません。

こういう技を極めていくのが合気道。まさに競争なき世界観です。

ジャック・デリダは、合気道の師範・・・ではなく、『脱構築』(ディコンストラクション)、『差延』等の概念などで知られるポスト構造主義の代表的哲学者です。

デリダは、「善/悪」「正常/異常」「男/女」「優/劣」のような、物事を二項対立で考えるのは、弱者や異質なものを排除する愚かしいことだと考えていました。

そこで、この二項対立を『解体』することを試みます。その試みこそが、『脱構築』の正体です。

では、二項対立の解体はどのように進んでいったのか?

たとえば「オジリナル」と「コピー」の二項対立で考えると分かりやすいです。「オリジナル」「コピー」と聞いて、果たしてどちらにより優位の価値があるでしょうか?という問題です。

ほとんどの人は、「そんなのオリジナルに決まってるじゃないか!」と即答するはずです。ですが、それ自体がもう既に二項対立に毒されていると考えるのです。

なぜなのか?たとえば、「オリジナル/コピー」を私たちの思考の働きと発言にあてはめてみるとこの問題もよくわかるんです。

今目の前になにか素晴らしい、何でもいいんですけど、仮に立派な腕時計があったとします。

それを見た私が、「なんと格好いい時計なんだ!」という感想をもちつつ、それを言葉で、「エゲツナクカッコイイ」と誰かに伝えたとしましょう。

「エゲツナクカッコイイ」という発言は、いわば私の頭の中での感想(なんと格好いい)をコピーしたものです。

つまり、オリジナルが「なんとなく格好いい」であり、そのコピーが「エゲツナクカッコイイ」です。

ところがです。デリダによると、私のオリジナル「なんとなく格好いい」という感想も、実はオリジナルなんかじゃない、ということになるんですね。

なぜなら、人間は通常、既存の言葉でしか思考できないからです。

「言葉」そのものは自分で作ったわけではないし、私がオリジナルだと思っていた「なんとなく格好いい」という感想そのものも、どこかで私が見聞きした言葉のコピーでしかないからです。

すると、私たちが勝手にオリジナルのほうが価値がある!と思い込んでいた「オリジナル/コピー」の優劣に逆転現象が起こってしまうわけです。

実は「優/劣」という二項対立はいとも簡単に逆転しまう、なんとも頼りないものなんですね。

こんなふうにデリダは考えたので、「二項対立なんてバカバカしい」って言って、その解体を試み、ポスト構造主義の担い手として君臨します。

ところで、西洋では伝統的に、書き言葉(文字)は話し言葉(声)の代替手段、つまりは「コピー」だと考えられてきました。

そのため、声(オリジナル)は文字(コピー)よりも価値が高いと思われていて、哲学ではこれを『音声中心主義』といいます。

もちろん、デリダにかかれば、こんな危なっかしい考え方はないわけです。

なぜなら、「声」を通して、目の前の現象をよりわかりやすく聴く人の感覚に働きかける、そのような表現技法により上位の価値を認めてしまうと危険すぎる、そんなふうに考えたからです(たとえば、音声によるプロパガンダといったら、ナチスが想起されたりしますよね)。

さらにデリダは、文字情報というのは声のコピーではないとも考えます。

(頭の中の)声から文字に情報が変換するとき、ちょっと難しい言い方になってしまいますが、動的な存在から静的な存在へと形が変わるというのです。

さらに、ただ形が変わるだけではなく、この変換の過程で時間的な『ズレ』も生じます。

このように、声から文字へと変化するプロセスで、オリジナル(声)とコピー(文字)が差異(ズレ)を含みながら進んでしまうことを、デリダは『差延』(さえん)と名づけました。

こうなると、音声も文字も一致していないのだから、どちらかがどちらの代用というのもおかしな話になる。だとしたら、 両者を同等に扱うべきだろう、というのがデリダの主張です。

しかも、「声」自体がまったくのオリジナルとは言えないわけで、その「声」のオリジナルに遡ると、それまでに自分が 見聞きした言語を適当に組み合わせて思考しているだけ、といってもいいわけです。

ということは、もちろん、今私がこのブログに書いている話自体も、私がどこかで見聞きした言葉を組み合わせて、たとえば、どこかでたまたま読んだ誰かの本、そこでたまたま目にした文字情報が「差延」されていることになります。

こうして、オリジナルだと思っていた情報が、実はコピーであり、でもそのコピーが誰かのオリジナルになり、またまた そのほかの誰かがそれをコピーしていく・・・・、というオリジナルとコピーの無限ループが存在するだけで、そこに優劣なんてものは何もないんです。

こうした考え方は学問の世界では不都合であったに違いありません。ある現象を説明できる正しい理論は一つだけなんだよ!というわけで、いったん定説と呼ばれるものが出来上がったら容易には覆せない世界だからです。

多少の偏見はあるかもしれませんが、大抵の場合その学問の世界で声のでかい先生が「オレの説が一番正しいんだ。文句は言わせないぞ」といったパワーゲームを仕掛けてきて、その座を勝ち取っていたりしています。

ですが、ある現象を説明できる正しい理論がたった一つだけなのだとしたら、その世界はすでに死んでいるとも言えるのではないでしょうか?

デリダは、ある現象についてさまざまな解釈が可能であることを、脱構築とか差延で教えてくれました。

デリダの典型的なやり方は、以下の2ステップです。

STEP1「テキストの内部からの批判」

ある文章(テキスト)を批判するときに、まったく違った文章を持ってきて「外」から批判するのではなく、「なるほどあなたの文章は正しい」と肯定しつつ、あたかも身内のようなふりして相手の「死角」に入り、それでいて全く異なる結論を持ち込みます。

(例)「情報発信者は実績がなければダメだよ」

☞「そうだよね!情報発信で実績を上げるまでのプロセスを情報発信すればいいんだよね」

STEP2「二項対立を見つけ出して解体」

文章(テキスト)の中に潜む対立構造を見つけ出して、その逆の意味を読み取って元の主張を破壊します。

(例)「実績のある者の情報発信は優れ、そうでない者の情報発信は劣っている」

☞「たしかに実績ある者の優れた情報発信は『実績ありきの情報だけを求める極端に視野の狭い人』にとっては役立ちますよね!』

「かの哲学者の道を探査し、彼の駆け引きを理解し、彼の狡知と渡り合い、彼の手札を操作し、彼にその策略を展開させ、そして、彼のテクストを我が物にしてしまうのである(ジャック・デリダ『エクリチュールと差異』法政大学出版局

このように、読み取り方の曖昧さ(意味が一つに限定されない)という文章の欠点を突いて、それを逆手に取るのがデリダの真骨頂です。

それ以前のヘーゲルの弁証法などの議論のやり方は、相手の不備を突きながら「お前は間違っている」「正しいのはオレのほうだ!」と相手を叩きのめしながら議論をより高みに上げようするものでしたが、場合によっては止揚するどころか大戦争にもなりかねません。

対して、デリダのやり方は、基本的に相手を肯定しておくのが前提なので、相手から内心「ムカつく!」と思われるかもしれませんが、酷い争いになることは避けられそうです。

それにしても、デリダって、相手の「死角」に入り込むのが巧みですね。

ひょっとして、合気道を習っていたんでしょうか?(そんなはずはないですね)

以上、相手の「死角」に入り込み、相手と『和合』して一体となり、その攻撃自体を無きものにしてしまう合気道)。

一方、相手の懐に入り込み、『和合』していると見せかけて「死角」に入り、その死角から議論自体を骨抜きにしてしまうジャック・デリダ。

さて、私たちは、その「死角」をどう確保したら良いのか?

かように、競争に因らない競争戦略へのヒントは至る所に転がっています。

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