日常のコンテンツ化とは何か

日常のコンテンツ化とは

簡単に言うと、誰かに「もうやめなさい!」と咎められたとしても、容易にはやめられない何かです。

おそらく、「その何か」がその人の日常を支配していると考えます(もちろん、違法・不当なものは論外です)。

「その何か」を日常レベルで抱え込んでいるだけでは、それはその人の趣味であったり、良い習慣であったり、逆に悪癖になるかもしれません。

私は、それが趣味であれ、良い習慣であれ、悪い習慣であれ、内に籠らずに外に向かって開放するだけで、その人の日常が価値を帯びると考えています。

もちろん、価値というのは相対的なものです。誰かにとって価値あるものは、別の人にとっては最悪なものになるかもしれません。

ですが、一人の人間が長い間継続して、その人の日常に溶け込んでいる何か、誰かに止められても容易には止めることのできない何か、というのは、その人がそれだけの価値をその対象に認めていることに他なりません。

そして、(潜在か顕在かを問わず)その人とまったく同じような価値観をもっている人は、世の中には呆れるほど存在するという事実です。

だとすれば、内に籠るより、外に開放してあげたら、「その何か」に内在する価値はもっともっと光り輝くものになるのではないか?

「日常のコンテンツ化」には、こうした考え方が根底にあります。

コンテンツとは何か?

次に、「コンテンツ」について考えてみたいと思います。

そもそも、コンテンツというのは、『中身』のことです。

瓶ビールなら、瓶が容器でコンテンツがビールです。

ごく一部の特殊な事情を除けば、通常「瓶ビール」に対する価値は、瓶ではなくて、液体のビールそのものに認められます。当たり前ですよね?

で、どんなビールを作るのか?キレなのかコクなのか、アルコール度数はどうで・・・というのが、コンテンツメイキングという仕事なのです。

つまり、「コンテンツ」というのは、『価値の表現物』のことなのです。

そして、先ほども言ったように、価値というのはきわめて相対的なものであり、これだけ物と情報が流の通している社会であっても、まだまだ私にとっての最高レベルの価値の表現物(コンテンツ)とは出会えていないと思うし、私以外の誰にとっても同様なことが言えると思っています。

その人その人が快適に暮らしている限りにおいて、それは価値ある日常に相違ありませんが、それでもあえて、その人その人にとっての最高の価値の表現物は未だ何処かに埋もれていると思うのです。

私は、その埋もれた価値が、どこかの名もなき小さな個人の日常の中に眠っているんじゃないか?と考えています。

だとすれば、そんな個人の日常を私は知りたい。

知るには、その日常をコンテンツ化してもらうのが一番わかりやすい。

まずは、ブログやツイッターで十分です。

もし、あなたの日常の中に、あなたにとって容易に止めざる何かがあるとしたら、そのことをブログやツイッターに毎日少しでいいから書き込んでみてください。

一年後、いや数か月もすれば、そこに価値が宿ります。

独りよがりでない、誰かさんにとっての明確な価値です。

毎日そのことについて考えている。止めろ!と言われても止められるはずがない。だから毎日続けているし、ブログだろうがツイッターだろうが言い続けたいことは山ほどある。

それだけで十分な価値です。

そのような「何か」について、毎日欠かすことなく、日常レベルでの気づき、試してみたことなどを、手帳や日記に書きとどめておく程度のお気楽さで、とにかく3,4ケ月は続けてみることです。

すると、ささやかな日常に変化が訪れます。

その変化は、他の誰かとの「共感」という形で具現化されるかもしれないし、そこまでいかなくとも、自分自身の日常を外の世界で可視化するだけで、あらためて自分自身がなぜその対象にのめり込んでいるのか、惚れているのか、客観的に理解できるようになります。

自分の感情を言語化できるということです。

その瞬間、自分の主観が容易には止めざるものをただひたすら継続していた昨日までの自分自身と切り離され、自分の日常の中に眠っていた潜在的な価値が何者であるのかを明確に認識できるようになります。

それを、世に広めることは非常に意義のあることです。

これが、「日常のコンテンツ化」と私が名付けているものの正体です。

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